たしなみ、としてのデザイン #techtekt Advent Calendar 2022

はじめに

初めまして、こんにちは。

今年の2月からパーソルキャリアにUI/UXデザイナーとしてジョインしました、そうです、わたすが変なおじさんです。

すみません、小澤祥矢と申します。

私は現在パーソルキャリアにおいてはプロダクトのUI/UXデザイナーとして新規事業を生み出し大きくしていくことに従事しておりますが、元々は紙の小さな広告制作会社でキャリアを始めました。

前職ではWEBやインスタレーションなどのデジタル/オンスクリーンに領域は変化し、事業の開発やお手伝いなどもしていたものの受託のデザイン制作には変わりなく、現職のパーソルキャリアでの事業会社のUI/UXデザイナーというポジションは自分としてはそれなりにドラスティックな変化でした。

今日は早いものでパーソルキャリア入社から約一年ほどたち、デザイナーとして新たな領域に踏み入れて日々試行錯誤してきた中で感じたことを徒然なるままに書き記そうかと思っております。

 

たしなみ、美しさ、すなわちGrace

まずタイトルで書いた「たしなみ、としてのデザイン」というのはなんぞや、ということについてですが、これは私の大好きなカート・ヴォネガットというアメリカの作家が書くことについて語った内容をまとめた『読者に憐れみを ヴォネガットが教える「書くことについて」』という本を読んでいて出てきた内容に影響を受け考えたものです。

この本自体、ヴォネガットの創作における姿勢や哲学が随所に詰まっており、付箋でガッサガサにしてしまうほど私は感銘を受けた超素敵な内容になっております。

この本の中で、自分が「デザイン」について考えていたさまざまなことをつなげてくれるような内容があったので、下記その一部を引用します。これはワインライターのアラン・ヤロウという方が小説の創作の授業を受講した際、ヴォネガットが講師として登壇した時の話だそうです。

猫背のカート・ヴォネガットは、居心地の悪い薄暗い教室で、我々十二人の学生に対して、魅力的なかすれた声で、開口一番にこういった。「長編小説は死んだ。今どき小説など誰も読まない。アメリカはみずからの想像力を失った。もう終わりだ」

〜中略〜

学生のひとりが蚊の鳴くような声でおずおずとこう質問した。

「ということは、先生は、そのぉ、僕たちは小説を書くとか、そういうことはよしたほうがいいとおっしゃってるんですか?」

これに対して、ヴォネガット先生は(もちろん、タバコの火をもみ消しながら)、椅子の上で心持ち背筋を伸ばし、心持ち目に輝きを取り戻して、こういった。

「いやいや、違う。誤解してもらっちゃ困る。きみたちは小説家として生計を立てることはないだろう。いくら頑張っても無理だ。しかし、だからといって、書いてはいけないということではない。きみたちはダンスのレッスンを受けるのと同じ理由で小説を書かねばならない。高級レストランでのフォークの使い方を学ぶのと同じ理由で書かねばならない。世界を見る必要があるのと同じ理由で書かねばならない。それはたしなみだ。

長々と引用してしまいましたが、この最後の言葉に私はハッとさせられました。

たしなみ?たしなみとはなんだろう?

goo辞書によれば、たしなみとは下記のようなものだそうです。

  1. このみ。また、趣味や余技。
  2. 芸事などに関する心得。このみ。「多少は英語の―もある」
  3. つつしみ。節度。「―を忘れる」
  4. ふだんの心がけ。用意。「紳士の―」

ほほう、わかるような気もしますが、もう少し深ぼってみましょう。

実際に原文(英語)ではどんな言葉だったのか調べてみました。すると、最後の一言は英語では「It's about grace」という言葉で話されていました。

Grace...とは。調べてみました。Graceという単語にはたくさんの意味がありますが、今回の文脈に合うものは下記のようなものでしょうか。

  • (動作・態度・物言いなどの)優美、優雅、気品、上品、(人を引きつける)美点、魅力、愛嬌(あいきよう)

なるほど、ヴォネガットは書くこととは「ただ純粋に素敵なこと」である、とでも言いたかったのかもしれません。というより、私がデザインについて考えていたことたちがつながってきたぞと感じたのは、このように解釈した時でした。

 

デザインの価値とは

つまり、デザインというのはただ純粋に素敵なことであり、「必要性」の話では語れない領域にこそ本質的な価値があるのではないか、ということです。

自分は領域を少しづつ変えながらも、一貫してビジュアルで情報を伝達しユーザーとコミュニケーションするデザイナーではあるので、ここで語ることは一定ビジュアルデザイナーの領域に限定されるかもしれません。

その上で、一旦デザインの価値について自分が考えてきたことしては、「適切な情報を適切なビジュアルとして磨き込むことで、情報伝達を最適化し、伝えられる情報を最大化すること」にあると考えていました。

これはまさしくビジュアルデザインの大きな価値であることに間違い無いと思うのですが、さまざまな組織やフェーズでデザイナーとしてプロジェクトに関わっていく中で、それよりも本質的な価値があるのでは?と考えるようになりました。

ここでまたある言葉を引用したいのですが、今回はアメリカの著名なエッセイストであるポール・グレアムという方の言葉です。

私は、たいていの人が考えているよりも、上手に書くことはずっと重要だと思う。文章を書くことは考えを単に伝達するだけじゃない。考えを生み出すんだ。

これをデザインに置き換えると、伝えるべき情報の本質を吟味し磨き込まれたデザインを作り出すことで、デザインする前では存在しなかった「新たな考え」が見出される、といえそうです。

 

デザイナーが与えられるもの

これらの考えをまとめたとき私たちデザイナーが人々に与えられるものについて考えてみると、アウトプットそのものはもちろんなのですが、むしろ「ビジュアルでコミュニケーションすることについて深く向き合う中で培った、素敵なものの見方」であるのではないか、と考え始めました。

それこそがヴォネガットの言う「たしなみ」のようにデザインを捉えること。

そしてそのたしなみ、としてのデザインをメンバーや組織にインストールしていくこと。

そう考えた時、ビジュアルデザインが見た目の話と捉えられてしまうことを否定し、デザイナーが持つ本当の価値と役割について一つの答えが出る気がしています。まあヴォネガットの意図していたであろうことからは完全に拡大解釈だとは思うのですが、この「たしなみとしてのデザイン」という考え方が、現在の自分にはすごくしっくりきたということです。

 

おわりに

デザイン思考やデザイン経営、BTC人材などさまざまな考え方に触れる中で、この一年は自分はデザイナーとしてどんな価値を提供できるのかについてよく考えた年でした。

本当に徒然と走り書いた支離滅裂な文章に、ここまでお付き合いいただいたみなさまに感謝します。

最後に、ヴォネガットの言葉をもう一つ紹介して終わりたいと思います。

人間の成長というのは奇跡だ。この世に生まれて、仕事をしつつ成長する。

芸術では食っていけない、だが、芸術というのは、多少なりとも生きていくのを楽にしてくれる、いかにも人間らしい手段だ。上手であれ、下手であれ、芸術活動に関われば、魂が成長する。

魂、成長したいですね!

来年も頑張ります!



小澤 祥矢 Shoya Ozawa

エンジニアリング統括部 UXデザイン部 デザイン第3グループ

紙媒体の広告制作会社からキャリアを始め、前職では広告デジタル領域やインタラクションコンテンツなどを主な領域としてグラフィックデザイナーとして従事。2022年2月からUI/UXデザイナーとしてパーソルキャリアへ入社。音楽が大好きな大阪人。

※2022年12月現在の情報です。